生成発展 テクノロジーで変革する中小企業の未来

「手書き」を95%削減した人事労務の革命
「新しいもの」への抵抗感を打破するには

中小企業をはじめ多くの会社で「書類」「手書き」「ハンコ」という古い慣習が残っている。「今のままでいい」と片付けられがちな領域で、老舗企業も導入する新たなサービスを生み出したベンチャー企業がある。目をつけたのは、「人を雇う」ことの裏側で、会社が負担しているさまざまな業務だ。

例えば入社時の雇用契約書や労働条件通知書の発行、社会保険・労働保険の加入。氏名変更や住所変更があれば都度、届け出が必要となり、年末には年末調整がある。契約社員やアルバイトなら、契約期間毎の契約書の巻き直しも必要だ。これらの手続きは2019年現在でも、主に手書きで行われている。

その結果、エン・ジャパン株式会社が実施した『人事の「理想の働き方・キャリア」徹底解剖!―人事白書2014―』によれば、人事労務担当者は大半が月に30時間以上の残業をしている。特に年末調整前の1〜2カ月は繁忙期で、長時間の残業を迫られる担当者もいるだろう。

そんな人事労務担当者の手書きの書類作成を「95%削減できる」とするのが、前述した業務をクラウド上で自動的に完結してくれる『SmartHR』だ。従業員が個人情報を直接、PCやスマホから入力すると、必要な書類が自動的に作成され、役所への申請もワンクリックでできる。入力された情報は人事データベースに蓄積され、簡単にデータ化することも可能だ。導入企業数は7月31日時点で2万6,000社に上る。

2015年に同サービスの提供を開始したSmartHR社は、急速に成長。7月には国内外の投資家や株主から合計約61.5億円の資金調達をするなど、社会的な注目も集まっている。未だに「手書き」という古い慣習が残る領域に、どうやってイノベーションを起こしたのか。代表の宮田昇始さんを取材した。

制作:朝日新聞デジタルスタジオ
撮影:栃久保誠

――「手書き」文化による途方もない非合理、IT化が遅れる社会の現実

SmartHR社は以前、ユニークな試みをしていた。サービス利用者の苦労を体験するため、新入社員が自分の雇用手続きを自分でするのだ。

人事労務担当者向けの専門書を片手に、新入社員が手書きで書類を作成する。それを持って年金事務所やハローワークを回り、書類を提出していく。4月、役所が混み合うタイミングでは「3時間くらい並んだ上、窓口の営業時間内に間に合わず、帰ってきた社員もいた」(宮田さん)そうだ。

毎月10人分の手続きがあれば10人分、100人なら100人分の作業が発生する。契約社員やアルバイトがいる場合、契約期間ごとに雇用契約を巻き直す。数千名を雇用していれば、数カ月おきに数千名の雇用契約書を更新する。従業員に押印して提出してもらったものに、社印を押してまた戻す。途方もない作業だ。

人事労務担当者の仕事は、年末調整でさらなる山場を迎える。従業員側は「面倒な書類3枚に記入する」といった意識だが、管理する側はそうはいかない。2,000人規模、例えば飲食チェーンで各店舗にプリンターがないような会社であれば、まず2,000人×3枚の書類を本社で印刷する。店舗数を100軒とすると、6,000枚の書類を100箱のダンボールに分け入れて郵送するところからスタート。マニュアルの作成や、スタッフから質問された店長が本社にさらに問い合わせをする伝言ゲームのような対応をこなして、提出された6,000枚の書類を隅々までチェックする。年末調整の書類は、年に一度しか発生せず、書類には専門用語が並ぶため、大抵の場合、記入ミスが多発するものだからだ。

これは極端にIT化の遅れた事例ではなく、現代の日本社会で、ごくふつうに起こっていることだ、と宮田さんは指摘する。「なぜ、この時代に、こんな非合理が残ってしまっているのか」――SmartHRの立ち上げ前、宮田さんが覚えた課題感はそのまま、“社会の非合理を、ハックする”という同社の理念になった。

―― 人事こそ「働き方改革」が必要という皮肉。でも、それを実現してみると…

サービスの提供開始から約4年。社員数10名未満の企業は無料とし、その数を含むものの、導入企業数は2万6,000社超。このうち有料課金ユーザーの継続利用率は99.5%と「一度導入した会社はほとんど退会していない」と言える。SaaSサービスと呼ばれる、クラウドでソフトウェアを提供するようなサービスでは継続利用率が98%を超えることが難しいとされるが、そのラインもクリアしている。高い継続利用率の秘訣は、やはり、サービスにより大幅なコストが削減できることだ。

「ユーザーの皆様に導入効果をおうかがいすると『手書き業務の95%削減』。どうしても最後、原本が必要な手続きが一部に残っているので……。他に『役所に移動する時間を99%削減』。ほとんどの業務がクラウド上で完結するので、これは明らかですよね。では、これらの業務で実際にどのくらい人事労務担当者の方の負担が軽減できるかというと、実際の利用者様からはよく『3分の1』という数字を共有していただきます。クラウド化によって、従来の業務が3分の1になった、ということです」

宮田さんが紹介する事例によれば、札幌を中心に展開するドラッグストアチェーンの『サツドラ(サッポロドラッグストアー)』では、契約社員やアルバイトの従業員の雇用契約書を2日で1,000人分回収できた。これは従来の10分の1に当たる期間だそうだ。また、全国に店舗を構える複合型書店である『ヴィレッジヴァンガード』からは、例年、年末調整の時期に毎日2〜3時間ほどしていた残業がほぼなくなった、と感謝されたという。SmartHRを導入することにより、これまで属人化していた人事労務の業務を標準化できる、というメリットもある。

「人事労務担当者の方というのは、とても忙しいんですよね。兼務をするのが一般的で、例えば9割が採用、6割が研修、他にも労務管理や人事考査、勤怠管理など多くの業務を担当している。2つ以上の業務を兼務している場合が8割、3つ以上が6割、6つ以上が3割いるというデータもあります。よく皮肉として担当者の方が言うのが、『一番働き方改革が必要なのは人事ですよね』と。

一方で、このような職種の方々が本来、時間をかけたいと思っているのは、企画や社内の制度改革など、人にしかできないよりクリエイティブな仕事です。例えば、クラウドソーシングサービスを提供するクラウドワークス様の事例だと、手書きの業務が多すぎて、人事労務担当者の手にはペンだこができていたほどでした。SmartHR導入後、浮いた3分の2の業務で何をしたかというと、社内の働き方改革だったそうです。本来クラウドソーシングは副業やリモートワークなど自由な働き方を推奨するサービスなので、自社でもそれを可能にする制度を作りたかった。人事労務担当者の方の負担を軽くすることによって、会社全体の働き方が改善されたんです」

―― 2回の失敗、10回の「ボツ」。サービスが軌道に乗るために必要だったもの

今でこそ順調に事業を成長させる同社だが、過去には2回の新規事業の失敗と、10回の計画段階での撤退を経験している。その理由として「『自分たちができること』からサービスを設計したため、机上の空論になってしまった」と宮田さんは振り返る。そこから10回の「ボツ」を経験し「社会課題があるところ、世の中のニーズがあるところからサービスを設計しよう」と思うに至る。しかし、テクノロジーで解決できそうな社会課題を発見すること自体、そう簡単ではなく「血眼になって課題を探していました」と笑う。

転機が訪れたのは、宮田さんの妻の妊娠だった。当時、妊娠9カ月で産休に入っていた妻が、自分で産休・育休の手続きをしていた。本来、会社がするべき手続き業務を、身重の従業員がせざるを得ない状況。「これはまさに社会課題だ」と感じたという。このことをきっかけに、人事労務領域にフォーカスし、課題の洗い出しをするようになった。

社会課題を身近に発見し、撮影した写真(宮田昇始さん提供)。

これは人を雇う企業であればどこにでもある、普遍的な課題だ。社会的インパクトがあり、ビジネス上有利になるという判断もあった。同時に「これは自分がやる理由のある事業だ」と思えることも、この領域に着手した理由だと宮田さんは言う。

「ボツにした10個の事業の案の中には、『これは成功するのでは』と思えるものも2つくらいあったんです。それをメンター的な存在の方に話すと『同じことをGoogleがやった方が強くない?』『あなたたちがやる意味あるの?』とバッサリで(苦笑)、言い返せなかった。でも、この領域に関しては違って。実は、7年前に大きな病気をして働けなかった時期があるんです。

ハント症候群という病気で、かかる人自体が数万人に1人、私のように進行するのが10万人に1人という、珍しいものでした。顔面麻痺で顔が動かない、耳も聞こえない、味覚もなくなる。三半規管がやられて、立って歩けないから車イスになりました。医師からは完治する確率は2割くらいと言われて。では今、なぜ元気かというと、リハビリに専念できたから。社会保障制度の中にある傷病手当金によって、収入の6割が補填された。私自身が社会保障のおかげで命拾いをしたんです。だから、私としてはこの制度自体は素晴らしいと思っていて。一方で会社が行う手続きの負担はとても重いし、上手に効率化しないと、かえってこの制度が必要な人のアクセスが悪くなってしまう。素直にチャレンジしたいと思えました」

折しも2015年当時は、クラウド会計ソフトが普及し、「会社の情報をネット上にアップする」ことへの抵抗感は薄れていた頃。マイナンバー制度がスタートし、その管理に関する法律がクラウドを想定したものになっていたため、企業がクラウドツールを探していたことも追い風になった。さらに、社会保険・労働保険手続きなどの電子化を推進していた行政が、実際の利用率が極めて低いことから、民間のベンダーの利用を期待し、関連するAPIを開放したタイミングでもあった。このように「さまざまな幸運が重なった」(宮田さん)ことも、サービスの成長の背景にある。

―― 「新しいもの」への抵抗感、どう乗り越える? イノベーターの答え

人事労務領域に改革を起こしたと言っても過言ではない同社。しかし、改革には抵抗がつきものだ。快進撃を続ける一方、類似サービスを提供する競合がほとんどいない現状で、そのシェアは日本の企業数全体で見ると、まだ「普及している」とは言い難い。要因には日本企業の「新しいもの」への抵抗感がうかがえるが、これをどう乗り越えていけばいいのか。こう質問すると、宮田さんは「私たちはよく『勤怠管理や給与計算機能をつけないんですか』と聞かれるのですが……」と切り出した。

「『作れば絶対に買うのに』と言っていただくのですが、私たちはそれをしません。なぜなら、そういうサービスは世の中にすでにたくさんあるから。今から私たちがそれらを作っても、イメージですが1.1倍とか、1.2倍くらいしか便利にならないでしょう。その程度では『今のままでいいじゃないか』という抵抗に遭うことは避けられません。でも、社会保険手続きに関する領域であれば、私たちのサービスは利用者様を10倍、便利にすることができる。全く新しいクラウドサービスが、このスピードで成長できた理由はそこにあると思います。圧倒的に便利なサービスを作ることができれば、次第に普及していくのではないでしょうか」

同サービスの利用者のほとんどはインバウンド、問い合わせ経由だという。その問い合わせが増えるのが「同業他社が導入したとき」(宮田さん)。例えばホテルニューオータニが導入したときは、ホテル業界からの問い合わせが急増した。前述のサツドラの導入時はドラッグストアから、宮田さんがイベントに登壇して鉄道会社の事例を紹介すると、鉄道会社からの問い合わせがやはり急増した。「置いていかれる」という危機感は、日本の社会において、テクノロジーを導入する原動力になるようだ。宮田さんは「業界内で『当たり前』になれば改革は速い」と指摘する。

法律の後押しもある。例えば2019年4月から、すべての労働者に「年5日の有給休暇の確実な取得」が義務づけられた。このように、社会的な大きな流れがあれば、企業も対応をせざるを得なくなる。書面でのやり取りが必須だった従業員への労働条件通知書の交付が、オンラインのやり取りでも可能になるなど、行政も手続きの電子化には積極的だ。

このように、社会の非合理をターゲットとしてイノベーションを起こし続ける同社。今後はSmartHRのサービスをより成長させながら、最近設立した子会社で、企業の「会議のムダ」や、確定拠出年金など「老後の不安」などの課題を解消していく、とする。

「先ほど『幸運が重なった』と言いましたが、『ラッキーは作れる』とも思います。目の前にチャンスが転がってくる確率は大体、平等であるという話を聞いたことがあって。だとしたら、チャンスが来たときに手を伸ばす瞬発力、チャンスを握り続ける握力、チャンスじゃなかったとわかったら手を離す判断力、このバランス感覚が重要です。失敗しても引きこもるのではなく、外に出て行動を増やしていきたいですね」

宮田 昇始(みやた・しょうじ)

SmartHRを開発する株式会社SmartHRの代表取締役CEO。2013年に株式会社KUFU(現SmartHR)を創業。2015年11月に自身の闘病経験をもとにしたクラウド人事労務ソフト「SmartHR」を公開。利用企業数は2019年7月31日は現在2万6,000社以上に。ユニコーン企業の創出を目標とする経済産業省のプログラム「J-Startup」に採択され、2019年7月、国内外のVCから合計約61億5,000万円の調達を発表した。

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