生成発展 テクノロジーで変革する中小企業の未来

浜野製作所代表取締役CEOの浜野慶一さん(写真右)とオリィ研究所代表取締役CEOの吉藤健太朗さん。学生だった吉藤さんは、自身の経験をもとに、療養生活で感じる孤独を解消しようとコミュニケーションロボットの開発に取り組んでいた。その開発を浜野さんが支援したいと考えたことが、浜野製作所のスタートアップ支援のはじまり=浜野製作所提供
浜野製作所代表取締役CEOの浜野慶一さん(写真右)とオリィ研究所代表取締役CEOの吉藤健太朗さん。学生だった吉藤さんは、自身の経験をもとに、療養生活で感じる孤独を解消しようとコミュニケーションロボットの開発に取り組んでいた。その開発を浜野さんが支援したいと考えたことが、浜野製作所のスタートアップ支援のはじまり=浜野製作所提供

有望スタートアップが列をなす進化系町工場(前編)

平成最後に天皇陛下(現上皇陛下)が視察された町工場が、東京都墨田区の荒川近くにある。浜野製作所だ。創業から半世紀、東京の下町で金属加工業を営む。「下町ロケット」さながらに、都内や近隣の町工場と共同で電気自動車「HOKUSAI」、無人深海探査艇「江戸っ子1号」を開発した。順風満帆にみえるが、19年前に火事で工場が全焼。崖っぷちから取引先や地域、社員に支えられ、ここまでこぎつけた。

文:内山まり
写真:伊原正浩

路地に入ると、赤や黄色でペイントされた建物が並ぶ。まるで美術館のようだが、すべて浜野製作所の工場だ。3階建ての本社板金工場に入る。1階には最新鋭の工作機械が整然と据えられている。照明は明るく、町工場の薄暗いイメージはない。ちょうど進捗(しんちょく)確認のミーティングの時間らしく、えんじ色の作業着姿の社員十数人が立ったまま話をしている。48人いる従業員の平均年齢は30歳弱と若い。

そんな工場を天皇陛下が視察に訪れたのは、昨年6月のこと。帰り際、社員らは「皆さん方の技術で世界が幸せになれるように頑張ってください」との言葉をいただいたという。

浜野製作所を視察される天皇陛下(当時)に説明をする代表取締役CEOの浜野慶一さん=2018年6月15日、東京都墨田区(代表撮影)/ 朝日新聞の同日付夕刊より

―― マニア、シニア、ジュニアを狙え

半世紀にわたって培ってきた金属加工の技術をもとに、半導体製造装置、医療機器などの部品や筐体の開発・製造から、研究機関、デザイナー、発明家の依頼まで幅広く受注している。取引先は約4800社。身近なところでは、空港や駅などに設置されている外貨交換端末「ポケットチェンジ」がある。海外旅行などの際に余った外貨を電子マネーなどに交換する端末だ。事業主体はベンチャー企業の「ポケットチェンジ」(東京都港区)だが、浜野製作所は端末の筐体設計、製作に協力し、納品している。ティ・ジョイ系オンライン映画予約サービスの端末も、企画・設計から手がけた。さらには、クリエーターの依頼を受け、アニメ「真空管ドールズ」の「ドール型PCケース」なるものを制作。代表取締役CEOの浜野慶一さん(56)は言う。

「ドールの背中にハイスペックのPCパーツを配し、通常のPCとして動くように作っています。アニメーションの世界のマニアは、好きすぎるとディスプレーだけでは満足できなくなり、そういうロボットが見たい、作ってくれ、お金は潤沢にある、となる。マニア、シニア、ジュニア、この三つはどんなに景気が厳しくなっても、ある程度の独占的な市場があります」

さまざまな製品の設計・開発を手がけているが、浜野さんは「創業者に敬意を払うという意味でも、父の代にやっていた金型と部品の加工は続けている。それで僕らはメシが食えて、この会社の元手があるわけですから。今でも大切にしています」と話す。

手軽に板金加工を楽しむキット「FACTORY ROBO」。1枚のステンレスの金属板から、専用治具を使って曲げや組み立てを行い、手のひらサイズのロボットや犬をつくることができる。「ファクトリーロボ」3千円(税別)、「ファクトリーロボ ドッグ」2千円(税別)。いずれも専用治具込み

―― 焼き鳥屋で知った父の「誇り」

父は福井県の小さな漁村から東京に出てきて、金型職人になった。母の実家近くに工場を借り、中古の機械を2台入れて金型づくりを始めた。1968(昭和43)年のことだ。高度経済成長に沸くなか、金型だけでなく、冷蔵庫や電子レンジの部品から百円ライター、ボールペンの部品までつくっていた。父が社長で母が経理。忙しい時期には、職人を1人、2人雇った。自宅と工場は一緒。職人肌の父と下町育ちの母は、ともに負けん気が強く、何か問題が起きると、けんか腰の話し合い。仕事が終わり、父が銭湯から帰ってきて一杯やり始めると、話が再燃し、落ち着いて夕食をとれる状況になかった。

「中学2年生のときに何となく感じちゃったんです。『本当は父も母もこんな仕事はやりたくないのに、学歴もないし、今さらほかの仕事もできないし、仕方ないから暮らしのためにイヤイヤながらやっているんだろう』って。高校、大学と進学しても、その思い込みは変わらず、両親の仕事をずっと尊敬できなかった。だから家業を継ぐ気はまったくなかった」

浜野製作所代表取締役CEOの浜野慶一さん

大学4年生のある朝、父に「最近、いい服着て出て行くけど、どこに行くんだ」とたずねられた。いつもはジーパンにTシャツ姿の息子が、スーツにネクタイ姿で家を出る。不思議に思ったのだろう。「就職活動している」と言って外出した。夕方、会社説明会を終えて帰宅すると、父に「ちょっとメシ食いに行かないか」と誘われた。とっさのことだったので、断る理由が思い浮かばない。近所の焼き鳥屋に連れて行かれ、ビールを飲みながら30分ほど経った。父は切り出した。

「お父さんな、お母さんとこんな小さな工場をやっているけれど、お父さんもお母さんもこの仕事に誇りを持っている。モノづくりは奥深くて楽しいんだ」

驚いた。父の目は輝いていた。会社の大きさで仕事の善しあしを判断していた自分を恥ずかしく思った。そして脳裏に浮かんだ。親が「誇り高くて素敵な仕事」と言っているのに、だれかが継がなければ、その仕事はなくなってしまう。医学部に通う弟は、さすがに継がないだろう……。3カ月ほど考えた末、家業を継ぐ決心を伝えた。「この仕事をやりたいけど、どうしたらいい?」

父は言った。「まずは10年間、でっち奉公してこい。小さな会社は、社長が図面を見たり、ものを作ったりできないことには、職人とも客とも話ができない。お前の時代には、量産の部品加工の注文はどんどん海外に流れるだろう。少量多品種向けの部品加工ができる精密板金を学べ」

先見の明があった。大学を卒業し、取引先だった板橋区内の町工場に修業に出た。ところが、家を出て8年目、父が52歳で他界した。実家に戻り、浜野製作所の2代目を継いだ。

―― 両親の死、火事、2代目を襲う苦難

2年後、母も病気によって54歳の若さで亡くなった。仕事を教えてくれるはずの両親を相次いで失った。

バブル景気は崩壊し、父の読み通り、量産部品の仕事は海外にシフトしていった。雇っていた職人は、高齢のために退職。ハローワークに求人を出したが見つからず、途方に暮れていたとき、板橋区の町工場で一緒だった5歳年下の板金職人、金岡裕之さん(現専務取締役)に連絡した。ちょうど職を探していたらしく、手伝ってくれることになった。知り合いの町工場から中古の機械を安く譲り受け、近くに所有していた倉庫を試作品がつくれる工場に建て替えようと準備に取りかかった。二人だったら頑張れる、と思った矢先だった。3カ月後に完成を控えた2000年6月の午前10時半ごろ、自宅兼工場が隣家から出火した火事で全焼した。両親の形見と幼いころに亡くした娘との思い出の品、商売道具の工作機械……。みんな焼けてしまった。

2000年6月の火事で焼けた浜野製作所=同社提供

火事のさなか、不動産屋へ駆け込んだ。工場を借りることができた。1台1万円の足踏み式の機械2台を買い、仕事を再開した。先行投資した試作品工場は残っていたが、火事の後処理に追われ、新規事業など手がける余裕などない。従業員の給料を払えず、山のように借金の督促状が届き、取り立てに追われた。

いつ倒産してもおかしくない状況のなか、火災の損害賠償金6千万円をもらえることに。火事の原因は、隣家の建て替え工事で鉄骨を焼き切るガスバーナーの火花。解体くずに燃え移り、17軒に延焼した。工事を請け負っていた住宅メーカーが損害を賠償することになったが、再び不運が襲う。支払いの合意文書に署名・押印する前日、住宅メーカーの倒産をニュースで知った。

火事の被害者たちは大騒ぎになり、夜遅くまで対応を話し合った。午後11時ごろ、工場に戻ると、明かりがついていた。「消し忘れやがって」と思いながら中に入ると、金岡さんが一人黙々と金型を磨き、消火の水で生じたサビを落としていた。駆け寄って、「後始末は俺一人でやる。お前も生活があるだろう。明日からは、ほかの会社に行ってくれ。借りている給料は必ず返すから、しばらく貸しておいてくれないか」と頭を下げた。すると、金岡さんは言った。

「金のためにここに来ているんじゃない。あんたと一緒に仕事をしたいから、ここにいる。浜野製作所はまだつぶれてませんよ」

借金の取り立てに追われながら、2、3時間の睡眠で、さびた金型を磨く毎日。疲れ切った心と体に金岡さんの言葉がしみた。

―― 取引停止を救った課長の心意気

当時の浜野製作所は、売り上げの9割を半導体関連メーカー1社に依存していた。後日、伝え聞いた話だが、そのメーカーの部長が「浜野から仕事を引き揚げて、ほかの下請けに振り分けろ」と部下に指示したという。たった2人の零細企業で、火事の憂き目に遭い、満足な設備もない。納品できなくなれば、自社に被害が及ぶ、と考えたらしい。指示を受けた課長は「どうか仕事を出し続けてやってほしい」とあらがい、「根拠を言え」と迫る部長に「根拠はない。あいつの元気に賭けてやってください」と懇願した。この課長の後押しがなければ、今の浜野製作所はなかっただろう。

「下請けには理不尽なことが山ほどある。それでもやらせていただくのなら、気持ちよく『ありがとうございます』と言ってやらせていただこうと。それだけは心に決めていました。仕事を出す側だって、きっと無理難題だとわかって言っている。であれば、選ばれる下請けになろうと。課長は、それを評価していてくれた。『あいつに何かあったら絶対に俺が助ける』と、常々おっしゃっていたそうです」

明るいカラーがひときわ目を引く浜野製作所。建設途中は小学生たちが「カラオケ屋さんができるらしいよ」と、うわさしていたという

株式会社浜野製作所
本社:東京都墨田区八広4-39-7
電話:03-5631-9111
従業員:48人(アルバイト・パートは含む)
(2019年4月末現在)
資本金:2千万円
創業:1968年
事業内容:各種装置・機械の設計開発、精密板金加工・レーザー加工、金属プレス金型設計・製作、ラピッドマニュファクチャリング(3Dプリンター・レーザーカッター・CNC加工・UVプリント・3Dスキャン・3Dデータ作成)など

代表取締役CEO:
浜野 慶一(はまの・けいいち)

1962年生まれ。東海大学政治経済学部経営学科を卒業し、東京都板橋区の精密板金加工メーカーに就職。93年、父の死去に伴い、浜野製作所を継ぎ、現在に至る。電気自動車「HOKUSAI」、無人深海探査艇「江戸っ子1号」など産学官連携のプロジェクトを手がけ、子どもたちの体験学習や、異業種とのコラボレーション企画を展開するなど、町工場の新しいビジネスモデルの創出に取り組んでいる。

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