生成発展 テクノロジーで変革する中小企業の未来

第9期「あきた未来塾」
第9期「あきた未来塾」

若者よ、家業を継ぐべし!
創造的事業への転換に商機

後継者はいないし、期待できる事業機会も少ない。そんな中小企業はお先真っ暗なのかと言えば、そんなことはない。全国約8千社の中小企業の現場を長年にわたりウォッチしてきた一橋大学名誉教授の関満博さんは言う。常に新しい可能性はある。若い事業承継者は、新しい時代に立ち向かう覚悟を持てと。

聞き手:ライター 羽根田真智
photo:伊原正浩

――中小企業の置かれている状況は劇的に変わったと指摘されています。どう変わったのでしょうか。

1985年のプラザ合意以降に発生したバブル経済が崩壊したのは92年です。このバブル経済の時代を境にして、中小企業をめぐる環境は劇的に変わりました。今では中小企業の新規創業はほとんどなく、廃業する会社ばかりです。製造業事業所は86年のピーク時には約87万4千カ所ありましたが、2016年にはほぼ半減し、45万4千カ所です。

戦後の日本は、世界でも珍しいほど新規創業が盛んでした。例えば東京の墨田区には新潟県出身者が多い。それはなぜか。新潟からだれか一人がやってきて、住み込みで働き、資金を得て独立する。すると兄弟や親戚がどっと押し寄せて、事業を拡大していった。古い経営者と会うと「昔はだれでも汗をかいたら成功した」とよく言います。とにかく事業機会がたくさんあったのです。

――何をやっても成功する伸びしろが大きい時代だったのですね。

そうです。しかし今では状況が変わってしまいました。特にこの30年、日本経済は縮小するばかりです。社会は成熟し、事業機会はもう豊富にはない。そんな現状をみると、若者たちは独立したがらないし、経営者になりたがらないのです。

比較的就職状況がよかった2017年、内定の取れたゼミ生10人に「社長になりたいか」と聞いたことがあります。すると「なりたい」と答えた学生はいませんでした。就職を「将来、独立・起業するための修業」と答える学生もいない。大学生の多くは安定志向なのか「普通のサラリーマンがいい」と言うのです。

――中小企業の後継者もなかなか見つかりません。

親族以外には継ぐ人がほとんどいません。従業員を抱えたままでは廃業するわけにいかず、仕方なしに息子や娘、娘婿が継ぐ例が多いのです。

――中小企業を第三者に継いでもらうことは難しいのでしょうか。

私は20年ほど前までは「中小企業も社会的存在なのだから、後継者を親族に限る必要はない。適切な人材が承継すべきだ」と考えていました。しかし、今はこの考えは相当に難しいと痛感しています。なぜなら、中小企業を引き継ぐことには、うまみがないからです。

こんな例がありました。私は全国で中小企業経営者を集め、私塾を運営しているのですが、塾生の中にサラリーマンから中小企業の社長になった人がいました。前社長から継いでくれと頼まれて引き受けたのです。私は「奥さんの意見はどうだった?」と聞きました。すると「専業主婦の妻には、頑張りなさいと言われました」と答えるので、私はこう聞きました。「奥さんの親は公務員?」。すると2代続けて公務員だといいます。公務員の家で育った人は「安定」が当たり前だと思いがちですから、夫が中小企業の社長になっても「頑張ってね」と、ついつい認めてしまいます。で、この塾生はこう付け加えました。「社長になった今、僕の家は担保に入っています。これは、妻には内緒ですがね」。これが中小企業の現実です。

――後継者の中には、代表取締役になりたがらない人も少なくないと聞きます。

それは、日本の中小企業経営者は個人保証を背負わされることが多いからです。これも事業承継を難しくしている理由です。金融機関は「個人保証はつけない」と言ってはいるが、現実はそうではない。第三者が先代社長から懇願され「社長」を引き受けたものの、実質的な事業承継は行われず、個人保証を断ってマネジメントだけを引き受けているケースがありますね。

――中小企業の経営に「うまみ」があれば、後継者を探すのは難しくないのではないでしょうか。

実際にそういう例があります。農業は中小企業と同様に後継者難の問題を抱えていますが、秋田県大潟村は違います。後継者がちゃんといる。大潟村はすべてが専業農家で、平均の農地面積は15ヘクタールもあります。1戸当たりの年間収入は2千万円です。村には中学校までしかないので、若者は高校進学から村外に出る。しかし、数年経って結婚相手を連れて村に戻り、農家を継ぎます。若い女性の増加が見られる珍しい農村なのです。

――年間収入2千万円の効果ですね。

お金の問題だけではありません。大潟村は1964年、国内で第2位の湖であった八郎潟を干拓して生まれました。「日本農業の生産性を上げる」「理想の農村をつくる」という国を挙げての大事業でした。ところが66年から始まった入植から間もなくして、国の減反政策が始まりました。しかし、断固として減反に応じなかったのが大潟村。大規模農業で、農協に頼らない産地直販の流通網を作り上げてきたのです。また「理想の農村」を目的につくられただけあって、農地と住居が適度に離れており、外から入って来た人でも暮らしやすい環境が整っていました。専業農家でもうかり、暮らしやすいならば、息子や娘は継いでくれます。家業を継ぎたく思える環境整備も必要です。

――大潟村の農業のように日本の中小企業が生き残る道はあるのでしょうか?

私はゼミ生の中で、しっかりした家業のある若者には、事業承継することを勧めています。「君は家業のない若者に比べて可能性が大きい。仮に借金があるにしても、これまで築き上げてきた実績、信頼がある。それが最大の資産だ」と激励します。

――それでゼミ生は納得しますか。

こう続けます。「これまでの仕事は先代や先々代が築き上げてきたもの。当時とは時代は大きく変わり、人口は減少し、市場は次第に縮小していくことが予想される。強い中小企業になるためには、君の代で新たな創造的事業に変えていく必要がある」。先代までの経営資産を守るだけではなく、新しい時代に合わせて事業構造を転換させるチャレンジングな仕事だとアドバイスするのです。

覚悟を決めて後を継いだゼミ生の中には、継いだ直後は苦しかったけれども、今では年間2千万~3千万円という収入を得ている人もいる。

継ぐ者としては、創造的な事業に変えていく覚悟を持たなければなりません。ところが多くの人は自信がなく、縮こまっています。私塾では、1年間を通して事業者としての覚悟をたたき込みます。経営管理の方法など小手先の技は教えません。さまざまな経営者と交流の機会を持ち、人脈を広げ、経営者としての心構えを固めることを優先させています。

――強くなる会社の共通点はなんでしょうか。

時代や置かれた環境に応じて、変化することです。先代の事業はひと昔前のものです。従来の事業のままで成長したいならば、市場が拡大している海外へ目を向けるべきです。海外展開ができないならば、国内の新たな条件である成熟化、人口減少、高齢化を前提に、それらに対応できる事業に再編するか、新しい事業を作り上げていくほかに生きる道はありません。

――新しい事業を創造できた事例は出始めていますか。

私がよく紹介するのは、岩手県釜石市の水産加工業者である小野食品です。社長の小野昭男さんは父親の急逝で実家に戻り、家業を継ぎました。家業は魚市場での水産加工品の販売でした。小野さんは魚市場での販売だけでなく、飲食店や旅館で朝食用の焼き魚の需要があることに気づきました。自社工場を建設し、給食向け魚加工をスタートさせました。

次第に事業は拡大し、三陸の旬の魚料理をセットで提供する事業をスタートさせました。東京の一流料理人から指導を受けて、食べる直前にお湯で温めれば「料亭レベルの味」を口にできる商品を開発したのです。個食化、高齢化の時代にピタリと当てはまりました。新事業をスタートしてから22年間で、売上高は25倍に成長しました。

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――すごいですね。

ところが、予期せぬことが起きました。2011年の東日本大震災です。震災から3カ月後に事業を再開したのですが、それまで主流だった量販店向け、ビジネスホテルの朝食用、弁当用などの業務用の受注が60%も失われたのです。

――小野食品はその試練をどう乗り越えたのですか。

業務用は国産にこだわる学校と病院に限定しました。一方で消費者への直販を5~10倍に拡大する方法を模索し始めたのです。

その時に小野さんが考えたのは、多少高くても、品質が高く、おいしければ、裕福な高齢者は喜んでくれるはず、ということです。高齢者はインターネットよりも新聞広告をよく読みます。震災前には裕福な高齢者が多い地域の地方紙に広告を掲載していたのですが、首都圏の60~70歳代の主婦層をターゲットにし、全国紙の夕刊にカラー刷り広告を出したのです。その結果、直販のお客は震災前の4700人から17年9月時点で3万4千人に増え、売上高も23億円まで伸びました。震災前は65%を占めていた業務用が震災後は大幅に減り、その代わりに粗利益率が業務用の2倍ほどある消費者向けの直販が50%超まで増えました。ビジネスモデルが劇的に変わったのです。

――まさに置かれた環境に応じて、変化し続けることが大切なのですね。

小野食品は津波で3工場が被災しましたが、2015年には従業員数、売上高ともに震災前を超えています。講演会や私塾で私は、小野さんの昔と今を対比させて「みなさんは今、小野さんの昔の姿のままだ。小野さんは全部失ったから劇的に変化できたという点もあるかもしれないが、変化しないと縮小を免れることはできませんよ」と叱咤(しった)激励するのです。

とにかく昔と今は大きく違います。その現実を受け止めて、常に事業を新しく創造していかないと、将来はないでしょう。見方を変えれば、常に新しい可能性があるということです。特に若い承継者は、新しい時代に立ち向かう覚悟と先代までの苦労に思いをはせる歴史観を持たなくてはなりません。時代の変化、環境の変化をベースにして、何をするか考え、事業を変えていくことが必要なのです。

関 満博(せき・みつひろ)

1948年、富山県生まれ。専門は中小企業論、地域経済論。76年、成城大学大学院経済学研究科博士課程修了。東京都商工指導所勤務を経て、東京情報大学助教授、専修大学商学部助教授、一橋大学商学部教授、明星大学経済学部教授などを歴任。現在は一橋大学名誉教授。著書は『メイド・イン・トーキョー:墨田区モノづくり中小企業の未来』など多数。

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