このシリーズでは、中小企業の多様性(ダイバーシティ)をテーマに、社会環境が激変するなか、中小企業経営にどんなパラダイムシフトが起こり、私たちの暮らしやビジネスがどのように変わるのかを全6回にわたって読み解いていく。
第3回は、大ロットが当たり前だった商品パッケージの世界に、デジタル印刷機で新しい風を呼び込み、高いオリジナリティで製版代ゼロ、在庫リスクも低い多品種小ロット印刷という革命をいち早くもたらした「吉村」、一時は10年間で7億円も落ちた売上をV字回復させた三代目社長に、その経緯を訊く。
1932(昭和7)年、パッケージメーカー「吉村」の前身が、産声をあげた。まだ東京湾で浅草海苔が取れていた頃だ。海苔袋に水引でこしらえる熨斗(のし)作りから始め、やがて海苔屋がシーズンオフに入った時期の商売にと日本茶の包装も手がけるようになった。
やがて1954年(昭和29)年に会社化。現在は三代目にあたる橋本久美子氏が代表取締役社長を務めている。
「昔は、木箱に入ったお茶の葉をお客さんの求める量に応じて紙袋に入れていたんですが、昭和47年にアルミ箔を貼り合わせた茶袋が登場して鮮度を落とさずにお茶を包装できるようになったんです。ちょうどその頃、東名高速道路が開通して3年が経過した頃でした。いずれ鉄道の貨車便からトラック便に変わる。そうなるとお茶の生産地から小売店や消費者に直送されるようになる。そこで当時専務だった父が、思い切って静岡県の焼津に茶袋の印刷工場を作って包装メーカーへと転身したんです」
とはいえ直後にオイルショックが勃発。銀行からの貸し剥がしに遭い、娘の橋本さん自身も学校の給食費を払えないほど生活は困窮したのだとか。
「それでも高度経済成長期でしたし、まだまだお茶も飲まれていたので、2年も我慢していれば軌道にのりました。父の社長時代で、一番売上があったのが1992年の53億円」
しかし、順風満帆だったお茶の包装メーカー業に暗雲がたれこめる。コーヒーの台頭やペットボトルの登場で、お茶の消費量は落ちる一方。13年前に橋本氏が社長に就任した際、売上は45億円にまで下がっていたという。
「10年間で7億円下がったわけですけど、やっぱり社員のモチベーションもすごく下がるわけです。そんな時に経営をやったこともない国文科卒の娘が社長に就任したわけでしょう。 朝礼で発表した時、女子社員の中には泣き出す子もいて、波乱含みのスタートでした(笑)」
そんな橋本氏には家業、ひいては茶業界全体に対する危機感があったという。それは「自分たちが考えているほど消費者はお茶を求めていない」ということ。
「この業界にいると、まるで『日本中で新茶を待ちわびている』と思い込みがちなんですけど、そんなことはない。わたし自身、入社前は専業主婦をしていたんですが、社宅のお茶会では誰もお茶を飲まない。紅茶やコーヒーばかり。つまり、吉村は消費者ニーズではなく、お茶屋さんのニーズをくんでいただけ。『お父さんヤバいよ、茶袋屋いらなくなるよ』って進言しましたね。夫の転勤で東京に戻って、私も企画部長として関わるようになってからお客様の声を直接聞こうとグループインタビューを始めました」
現在でも6人ほどの一般消費者を集め、年に10回も開催しているというグループインタビュー。率直な声を聴くことで、トレンドの変化を察することにつながっているという。家庭から急須が消えること、ギフトの傾向が中元・歳暮から想いを伝えるプチギフトへと変わること、お茶が量り売りから予算ありきで買われること。集まった様々な声を商品開発に活かしてきた。
「商品開発が大事なのも、うちの売上はカタログ販売が半分を占めるからです。大手製茶メーカーからパッケージの制作依頼を受けているだけでは、相見積もりもあって価格競争に飲み込まれます。その点、自社デザインのパッケージであれば割高ですけど100枚から購入していただけますし、何より自分たちに価格決定権がある。父の時代はグラビア印刷しかなかったので1回に1万枚から2万枚も印刷していました。そうするとオリジナルを制作するには付いてこられないお客さんもいる。逆にカタログ販売品は同じデザインになっちゃうんですよね。無難な富士山、茶畑、湯呑み、みたいな」
さらに他社に依頼していたデザイン料や製版代も別途、料金がかかる。長年使っていた版が劣化して錆びてしまうと、お客さんに版代を請求せざるを得ない。だが、顧客は納得できない。
「まず自分が社長に就任して最初にやったのがデザイナーを社内に入れることでした。外の会社にお願いするとお金がかかります。加えて、デザイナーがいれば、まだお客さんが漠然と考えているものでも次回の商談に持っていけます。私たちはそれを側面営業と呼んでましたね。『これ買ってください!』と対面営業するんじゃなくて、隣で『このデザインいいよねー』と未来を一緒に見る提案型営業です」
そうは言っても、版代やロットの価格を提示すると、結局無地の袋にシールを貼る方向に落ち着く。
当時の吉村は、グラビア印刷で2000mという、かなり短いサイズでも利益を出せる仕組みを構築していた(サイズに依るが、100gの平袋で約1万6000枚程度製造できるくらいの長さ)。しかし、グループインタビューに見られたように、世の中のギフト需要も変わっていた。前年と同じものは贈れない。中元や歳暮に比べ、贈る頻度も多い。消費者は、小ロットかつバラエティー豊かな可愛いパッケージを求めているのに、ニーズを満たすことはできない。なぜなら、従来の印刷は、一つの種類につき多くを印刷しないといけない点で、あまりに重厚長大だったからだ。
行き詰まりを感じる中で出会ったのがHPのデジタル印刷機「Indigo」だった。
「2007年、初めてIndigoに出会いました。当時見せていただいたのはペットボトル用シュリンクフィルムで、まだアルミ箔に貼り合わせる前例はなかったんです。父からは『そんな小ロットでやって馬鹿じゃないか』と言われました。でも大手が成功した後に入っても市場は取れない。マニュアルや成功事例があるからやることは、100点を取ることなんですけど、一番になることじゃない。泥臭くてもゼロからイチを作る方が面白いし競争力がつく、と思い切って購入したんです」
しかし、問題もあった。購入後、吉村の社員が「やんちゃな魔法の箱」と呼ぶIndigoとの格闘が始まった。
「泥沼で溺れる感じですね。今までのグラビア印刷は機械の仕組みがわかっていましたが、Indigoはブラックボックスであり自分たちでイジれない。社員がHPさんからトレーニングを受けて、印刷まではなんとかなりましたけど、そこからアルミ箔を貼り合わせるのはHPさんにしたら門外漢。ですから、そこからチャックをつけたりするのが泥沼でした。色ブレが出たり、色が焼けたり」
試行錯誤は3~4年にわたって続いたという。そのタフな期間をどう乗り越えたのだろうか。
「いかに機嫌よくやるか、ですね。機嫌よく失敗を次に活かす。うちは、会議のやり方を工夫していて、誰が言ったかとか誰かを責めるのではなく、部分最適でいいから意見をどんどん出して、最後に全体最適にもっていく。デザイナー、営業、デジタル印刷の職人、ラミネート工程の人間が委員会を作り、しょっちゅう会議をやっていましたね。何かをクリアすると次に問題が出てくる。その失敗をポジティブにとらえて、よく頑張ってくれました」
その泥沼で気づいたのが空調の重要性。当時、引き合いが入り始めた医薬部外品のパッケージ製造では、クリーンルームが必要ともあって、18億円をかけデジタル印刷工場を作ることにしたという。おりしもテレビで掛川茶が紹介され一大ブーム。2011年には年商52億円とV字回復を果たした。
「思い切って工場を建てたんですが、直後に東日本大震災が起きて、6月には静岡茶にもセシウムが出ました。一気に落胆ムードになるなか、『世界デジタル印刷コンテスト2013』でグランプリを獲るんです。同時に、日本茶包装資材の売上が右肩下がりになるなか、『これだけじゃダメだ』とサプリメントのパッケージで健康博覧会にも出展しました。当時は瓶状のパッケージが主流で、大手以外は無地の袋にシールを貼るしかなったので大変好評を得ました。パッケージが可愛くなることで自分用からギフト用として市場を広げたサプリも出てきた」
まさに起死回生。テクノロジーを駆使したデジタル印刷のメリットは従来の印刷や包装の価値観を転換するほどだったという。
「カタログ商品をデジタル印刷で出すなんて、昔では考えられなかった。メッセージ付一煎袋で170種類ものバリエーションを用意するなんてデジタル印刷だからできたことです。特に伸びたのがお土産です。1000円の静岡茶は買えないけど、1回分のお茶ならお土産として配ることができる。それもこれもグループインタビューでわかったことです。『私たちそもそもお茶を買いたいと思って生活してない』『面白い猫のパッケージなら買うかもしれない』等々たくさんの学びを得ました」
グループインタビューと同時に大切なのが産休・育休明けで戻ってきた女性社員のアイデアだ。
「彼女たちはプロ消費者として戻ってくるんです。主婦の口コミってすごいですからね。私たちはお茶が主役だと思っていますけど、普通の人からしたら脇役じゃないですか。だったら主役を作ろうと企画したのが割れチョコです」
思いついたのは、小豆といったトッピングで「和」を感じさせるチョコレートだった。
「ロフトや東急ハンズで取り扱ってもらえるようギフトショーに出してみたら、運良くフード大賞をいただきました。デジタル印刷だからパッケージが12種類もあって、袋の形状はマチ付きで自立するので、それだけで面が作れて売り場にもなるんです」
産休・育休をしっかり取ってもらうと結果として会社が成長する、と同氏。1年以上どっぷりと主婦のコミュニティーに属することこそが価値だという。またIndigoの導入でPDCAサイクルが早まったとも。
「とりあえずトライアンドエラーしてみようと気軽に挑戦できるようになりました。うちのヒット商品に『お茶屋の看板猫のみたらしちゃん』シリーズがあるのですが、あるときコーヒー業界から使わせてもらえないかとオファーがあったんですね。でも、みたらしちゃんの理念を考えるとできない。その旨をパッケージに反映させてキチンと断ることができた。そんな小回りの良さがあります」
その小回りの良さゆえに課題もあると同氏。
「小回りが効くってことは、いつまでも手直しができちゃうってことですよね。人が介在するのでコストに繋がるのが悩みの種です。そこでホームページから電子入稿をしてもらう仕組みを作りたい。今もあるんですけど、ちゃんとしたデザイナーにしかできないので、もっと簡単にできないものかと思うんです」
最後に、中小企業の変化に欠かせないことは何かを橋本氏にうかがった。
「うちは経営理念を大事にしています。社長就任時は直感的に『茶業界のビジネスパートナー』だったんですが、今はお茶を取って『想いを包む、未来を創造するパートナー』にしました。業界は問いません。こだわりがあるものほどロットが小さくパッケージのクオリティが落ちる。結局使われず、大ロットのものの方が、パッケージがよくクオリティが高く見える。それに一矢報いたい。うちは理念に本気なんです。自分が迷った時、私自身の判断基準になりますし、マイクロマネジメントしなくても現場で考えられる。自分たちで考えてPDCAをまわせる。これだけ変化が早い世の中で、唯一自分だけが答えをもっていると思い込んだときに間違える。『理念に反して、それってどうなの?』って社員一人ひとりが考えられることが大事。あり方が決まるとやり方が見つかりますから」
国文科卒業とあってか終始言葉のもつ力に敏感な橋本氏。締めくくりとして同氏が社長就任時に社員に宛てた手紙をご紹介しよう。ここに書かれていることこそが同社の強みなのかもしれない。
──日本茶の袋を作っている当社は日本一の会社です。湯呑の中のお茶の色、新芽の美しさの表現力は日本一、お茶屋さんとのネットワークも日本一、日本茶パッケージに関する没デザインのストック数はきっと日本一。そういう日本一をきちんと見直して今までの歴史の中で培ってきたお客さまと技術と社員のみなさんという宝物をいかして次世代に繋がる事業の種をまくことが私の課題です。
株式会社吉村
本社:東京都品川区戸越4-7-15
E-mail:honsya@yoshimura-pack.co.jp
従業員:233人
資本金:9100万円
創業:1932年
事業内容:食品包装資材の企画、製造、販売
1959年、東京都品川区生まれ。日本女子大学を卒業し、吉村紙業株式会社に入社。1986年に出産のため退社し、契約社員として勤務。1998年に復職し、取締役経営企画室長に就任。2005年には代表取締役社長に。03年、デジタル印刷の世界的コンテスト「ディースクープ」のパッケージ部門でグランドウィナーに輝く。経済産業省による「新・ダイバーシティ経営企業100選」にも17年度に選ばれ、18年には「第8回 日本でいちばん大切にしたい会社大賞」で中小企業基盤整備機構理事長賞を受賞した。
中小企業の多様性(ダイバーシティ)
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